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simplestarの技術ブログ

目的を書いて、思想と試行、結果と考察、そして具体的な手段を記録します。

人工知能:単語から経験に基づくエピソードが思い起こされる

最近、人工知能ネタばかり書いていますが
そのことを物理に詳しい高校の友人に聞いてみたところ
(人に聞いてばっかりですみません)

単語から、それにまつわるエピソードが思い起こされるから
その後の心配とかするわけですよ

と言われました。

なるほど、単語から経験に基づくエピソードが思い起こされる、という仕組みがあれば
バラの手渡しという内容から、指をトゲで怪我するという回答を得られますね。

そういった知識を蓄えるデータ構造というものを考えてみたいと思います。

単語の包含関係だけではなく、文章に対する理解というものからすべてが始まるとするなら
日本語について詳しくならないといけませんね。

まず、思考の土台作りに日本語を勉強してみます。

ふと、人工知能の研究の歴史を調べたのでリンク先を示します。
blogs.itmedia.co.jp

1984年、エキスパートシステムの延長線上で、人間の知識を全て記述しようという「Cycプロジェクト」が米国でスタート

とのことで、ちょうど研究が始まって25年分の進捗の部分に差し掛かった訳ですが
知識は多すぎること、増え続けること、知識の多様な表現に対処しきれないということに下火になったそうです。

多くの人はああだ、こうだと議論しているが

私が感じていることは
人はそれぞれルールを持って行動していて、そのルールをコンピュータ言語に書き下すことができれば
コンピュータが人のそれと同じ行動を取れるというアイディアがあれど
しかし、人がルールを口にできるのは、人間の行動のごくわずかであり
そのごくわずかな行動をコンピュータが行っても、まだまだ人工知能とは呼べない代物である
今人類に求められていることは、もっとそのごくわずかにわかっている領域を広げることである。

それをするには、日々の感情や行動に理由を求めてみると良いかもしれない
たとえば、なぜ私は人工知能について記事を書いているのか

それには語りだしたら生涯が終わってしまうほどの理由があるわけで
理由を構成する要素の数はあまりに膨大で、複雑であり
人はそうした処理しきれない理由をまとめて「なんとなく」と回答する。

そう、私はなんとなく人工知能について語りたいし、考えたいのだ。
昨日、飲み会でこの話に関連して、人の脳のバグがやる気を出させているかもしれないということだった。
人は必ず錯覚をおこし、間違いによって行動を始めているとのこと
もし完全なプログラムだったなら、やりたいことが見つかるはずがないとのことだった。

それは人工知能についても言えて、完全なプログラムで組んだ人工知能はやりたいことを自ら決めることは出来ず
プログラムのバグから、自分のやりたいことを決定するようになるとのことだ。

で、話を戻して、もう少し人工知能の歴史について調べてみた。

人工知能の初期はオートマタらしい
まず、人の心の定義というものがあり、その形を決めるのは心自身ではなく、それを観測する周囲の心によって形どられる
こうした観測することも解体することもできない心というものは、人間による錯覚であるという核心を突いたのがオートマタであり
息をする、泣く(鳴く)、水を飲む、笑う、寝る(目を瞑る)、目を覚ます(目を開ける)、排泄するといった、一連の生物らしい動作をするその機械仕掛けの人形は
まるで、自ら行動し、感じて、考えているように、見た人間は思ってしまう。

電気による文明の発展以後、珍しがられなくなり職人もいなくなったが、人工知能の作り方の本質は今と変わらない
行動を観測する側に、生きているとか心があるように錯覚させる仕組みを設計すること、それが人工知能の開発の本質なのだ。

出発点として確かめてから行動しなければならないことに、思考や心といったものを感じ取ることができるため、存在していると信じているにすぎず、その存在を証明することはできない。
我思う、ゆえに我ありという出発点で確かめたのは自分の存在であり、思考や心といったものを感じているだけで、やはり思考や心まで存在しているとは確かめようがないのである。

言いたいことは、確かめようがない心を、確かな仕組みで作ろうとしても
いつまでたっても正解には辿りつけないことが確かなわけで
不完全な心の仕組みであっても、そこに存在を信じることができるのならば、普段人の中にあると信じている心が、その不完全なしくみにあると言っても、間違いであるとは言えない。
単純なロジックの組み合わせで動いている仕掛けに心があるという人が現れても、それを完全な間違いとは指摘できないのである。

つまり、この先プログラムを書いていって、動き出したそのプログラムに心があると感じても、それは間違いではない。
攻めるべきは人の錯覚の部分で、そこを研究していけば、心の解明よりも先に、心を持ったプログラムを人に観測させることができるようになるのだ。

では、人の錯覚って何なのか

で、話を戻して、人工知能の歴史について調べます。

ヒルベルト・プログラムという「数学におけるあらゆる推論は形式化できるか?」という根本的問題に対する回答に共感を覚える
有限ではあるが、その限界が存在する閉じた世界の中でならば、任意の数学的推論を機械化できるということだった。

これには、一つの発想を得た
いつぞやの表現の多様性に悩まされたことがこれに関係していて、限定した世界における限られた表現範囲に落とし込んでから
思考させることができれば、そこには機械化された仕組みによる回答が真の答えとなりうるということ

続けます。

人工知能の歴史でニューラルネットワークは欠かせないらしい。
先んじて、3層ニューラルネットワークならば、ユニット数を任意に決定できるものをプログラムしたことがある。
simplestar-tech.hatenablog.com
間違いというものが定義できるならば、間違いを小さくするようにロジックを組み直すというやり方のことであった。
これも、ヒルベルト・プログラムの回答から考えるに、限定された世界ならばそこに機械化された知性を作りだすことができた例といえる。

知性という表現も何を表しているか難しいですね。
分解していくとただの四則演算ですが、それらが意味のある重なりあいとなって、対象を分類しやすい数字の組み合わせに変化していきます。
こうした複雑で価値ある情報処理を知性と言いましょうか。

人工知能の歴史に興味が湧いてきました。
次の記事に続きます。